南濱墓地 墓石調査 Iブロック

まずは配置図を作成しました。

   各列をA~Vとしてそれぞれの墓石に番号をふって A-3 のように区別します。(あ~面倒だなあ)
   青い四角は一族墓で、現在も祀られています。他に祀られているのは小数です。

 Iブロックはご覧のように大中臣(大道)一族の墓が並びます。


   左から順に
I-1  正面   ●釈慈舟●    剥落片あり
   右側面  正徳六年二月廿●(1716)
         台座と竿石のバランスが悪く多分別の組み合わせでしょう。元あった竿石はどこへ?
      彫り込んだ奥だけが先に剥落するのはなぜでしょうか?

I-2  正面   賢性院之墓
   左側面  天保七年(1836)四月六日

I-3  正面    洲元孺人西村氏之墓
   左側面    剥落
   右側面も大半が剥落しており、 卒元治元年(1864)甲子(以下欠)
                  法号同洲元院昭空妙(以下欠)
   素直に読むと、洲元という人の奥様の墓なのですが、西村という家から嫁いだのです。
           大道氏では男性の名には「大中臣」を用います。
   台座には 大道とあります。


左から順に
I-4  正面    大中臣元徳塚     塚と書くのを始めて見ました。
         大中臣の姓は藤原(中臣)鎌足にまで遡る神祇官職の家系ですが、中世に廃絶しており
         この主がどういう家系なのか???
   右側面   天保十一年(1840) 五月十八日
                 大道
             天満宮史研究では
             元徳は東大道氏7代目で六代目元任の養子
                        本家大道10代目信弘の子
                  明和六年生
                  寛政十二年十一月十五日従五位下
                  文化十二年十二月廿一日家督相続
                  文政十一年十月十六日諸式社用物買入方
                  没年は記載なし

I-5  正面   耕雲院元洞居士
         長松院貞壽禅尼
   左側面   元文三天(1738)十月晦日


I-6  正面   真空治●居士
         松誉貞心禅尼
   右側面   享保三戊戌三月(1719)
   左側面   大道●        大道氏なのに仏教戒名をつけています。大道でも傍系になるのでしょう。

I-7  正面    大道氏大中臣宗父墓                   直系では大中臣を名乗っています。
   裏面    元禄十丁●八●三●(1697)               元禄10年は丁丑

I-8  正面   大中臣宗弘之墓
   左側面  大道氏


I-10  正面   大中臣重俊●
   右側面   大道●

I-11  正面   土佐介大中臣信弘墓   大道は代々従六位下土佐介をもらっていたようです。
   左側面  文化十二年(1815)四月九日
             大道

I-12  正面は完全に剥落
   左側面  辛うじて 大道の2文字が残る


   フェンス側はこの通り管理されていません。もともと立っている墓の間に、雑多な石を放置。


I-20  正面  暁山忠光墓     大道氏の長男なら大中臣とするはず。
                       名前の響きからすると書家・絵師・俳諧師・連歌師か。
                       天満宮は連歌で有名なので多分連歌師だったのでは?
    左側面  大道氏

I-20の両側にある台座石に注目してください。どちらも竿石は失われています。
左側の傾いた方には竿石の痕跡が残っていますが、右側の台座にはありません。
つまり、左側の台座には比較的近年まで竿石が乗っていたわけです。ただし、いつ頃までかは不明ですが。